突然ですが、ブルースはお好きですか?
アメリカの、古い労働歌から発展して生まれた大衆音楽、それがブルースです。
私は、中学生の頃に、この音楽の良さに気が付いて以来、ロックやジャズやクラシックと同様にずっと聴き続けています。
そこで、今回は、このブルースをテーマにした小説を書いてみる事にしました。
日本におけるブルースの聴衆の傾向や、日本の音楽シーンにおけるブルースの位置づけなど、日ごろブルースを聴いて来て感じていたことを、物語の中で表現して行きたいと思います。
5話くらいで完結する、中編程度の小説になりそうです。

それでは、挿絵とともに、かなり長いですが、第1話をお楽しみ下さい。


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ブルース少年

(1) 天才少年、ブルースに出あう

ぼくは蒼井鳥夫(あおいとりお)。十三歳、中学一年生。
ぼくの名前を、聞いたことがあるって人は、動画サイトで、子どもが演奏するのを観るのが好きな人だと思う。
ぼくは、お父さんにギターを教わって、幼稚園の頃から、お父さんのバンドと一緒にライブハウスの舞台に立っていた。
難しい曲でも、早く覚えて弾けたから、お客さんたちはぼくを、天才だと言ってさかんに褒めてくれた。
才能ある子どもを紹介するテレビ番組に、出演したこともある。
その番組には、音楽だけじゃなくて、ダンスとか、書道とか、空手とか、いろんな分野で、大人顔負けに上手な子どもたちが出演していた。
ぼくは、司会者から天才ギタリストと紹介されて、アップテンポのロックをカラオケに合わせて演奏したんだけど、ゲストで来ていた、テレビで見た事のあるギタリストから、「自分より上手」と言われて、すごく嬉しかった。
それが、小学二年生の時。
そのテレビ番組がきっかけで、別のテレビ番組や、地方の音楽イベントなどから出演依頼が来たので、ぼくらは東京だけじゃなくて、大阪や仙台や福岡まで出かけて行って、おおぜいのお客さんの前で演奏した。
遠征をする時は、ぼくは学校を休まなければならなかったけど、勉強があまり好きではなかったから、むしろ親の公認で休めることが嬉しかった。学校の友達と遊ぶ時間があまりなくなったのは、嫌だったけどね。
お父さんたちは七十年代から八十年代にかけての洋楽ロックが好きだったから、バンドもその頃の曲をレパートリーにしていた。
ぼくも自然と、ディープ・パープルやジェフ・ベック、マイケル・シェンカーなど、一昔前の曲が好きになって、ライブの復習もかねてよくCDを聴いていた。
お客さんは、ぼくがどのくらい原曲に近い演奏ができるかを楽しみに来ているので、ぼくは繰り返し聴いて細部まで覚え込んだ原曲の演奏を、お父さんが買い揃えてくれた六本のギターと音響機材を使って、原曲に近い音色で、原曲とまったく同じように奏でるのが仕事だった。
ぼくも、小さいながらに、チケットを売ってお金を得ているプロなんだ、という自覚があったから、ショーの前はバンドと入念に練習をしたし、失敗なく演奏できると、お客さんも特別盛り上がったから、人を喜ばせるのが大好きなぼくにはもってこいの、本当にやりがいのある仕事だった。
ところが、テレビに出て二、三年の間は、それで良かったんだけど、五年生くらいになると、急にお客さんの入りが悪くなってきて、イベントやライブハウスからの出演依頼も、めっきり入らなくなって来た。
考えてみると、お客さんは、まだ七歳とか八歳の小さな子が、身に余る大きさのギターを抱えて、大人に交じって達者な演奏をするという、その珍しいショーを見に、わざわざライブ会場に足を運んでくれていたのであって、ぼくがそこそこの大きさに成長してみると、お客さんの期待するところも変わってきて、いつまでも同じ演奏を繰り返しているだけでは飽きられてしまう、というところまで来たんだと思う。
ただ、ぼくの方も、自分の成長に合わせて、音楽的に成長していかないといけないなとは思っていて、四年生ぐらいからは、それまで興味のなかったジャンルの音楽にも、積極的に耳を傾けるようになってはいたんだ。
そんな中で、特に興味を引かれたのが、ブルースとジャズだった。それも、今どきの新しいのではなくて、戦前とか戦後すぐとかの、大昔のアメリカの音楽。
金沢のライブハウスで親しくなった照明係のお兄さんが、たぶんぼくの行き詰まりを予感して、こういうの聴いてみたらって、マディ・ウォーターズとチャーリー・パーカーのベスト盤を貸してくれたのがきっかけなんだけど、最初はどれも似たような曲で面白くないなって思ったんだ。
でも、七十年代のロックバンドの中にも、ブルースやジャズの影響を受けたグループはたくさんあって、そういうバンドの演奏に親しんでいるうちに、彼らの演奏は、もっと古い時代のミュージシャンの演奏を基にしているんだということに気が付いたんだ。
そうすると、急に目からうろこが落ちたみたいに、大昔の音楽の良さが分かるようになって行った。
それと同時に、ぼくが好きな音楽が、身近な人の好む音楽ではない、という場面にも、たびたび出くわすようになって来た。
たとえば、吉祥寺のジャズ喫茶で、マスターとうちのバンドの人たちが、ビートルズについて話していたんだけど、マスターがジョン・レノンのギターの腕前について力説するので、じゃあレコードで確かめようという事になって(ジャズ喫茶だけど、マスターの好みでロックのレコードも置いてある)、彼とオノ・ヨーコの共作アルバムをターンテーブルに載せたんだけど、うちのベースの岸田さんが、
「ヨーコの歌は飛ばしてくれよ。」
と言ったので、マスターは、
「飛ばさないでか。」
と答えた。
するとお父さんは、
「ジョンもうんざりしてただろうね。」
とにやけながら言ったんだ。
そういう時僕は、違うんだ、そうじゃないんだって思うけど、口に出すことができない。
だって、大人たちは、自分たちの方が音楽についてよく分かっていると思っているし、ぼく自身、音楽について、大人たちよりもよく分かっているとは思えないからだ。
そういうわけで、ぼくは舞台では相変わらずロックの定番曲を再現する仕事をこなし、家ではしゃにむに泥臭いブルースやジャズをかき鳴らし、声変わりし始めたおかしな声で男女の恋模様の歌をがなり立てる、とても風変わりな小学生になって行った。
お父さんは、ぼくがジャズやブルースに熱中しているのを見て、「そういう音楽は金にならんよ。」と諭すように言ったし、じっさいに、一度舞台でブルースの弾き語りをやらせてもらった時には、精一杯の歌と演奏ができたのに、お客さんはどう受け止めたらいいのか分からない様子で、拍手もお情け程度にまばらだった。
ドラムスの吉田さんはライブの後で、
「お前のブルースは子どもっぽいんだよ。まあ実際子どもだからしょうがないけど。つまり、ブルースの味わいは自分の体験からにじみ出るもんだろ。人生経験の浅いお前にはまだ無理なんだよ。」
と言った。
ぼくはそうなんだろうな、と思う半面、そうじゃないだろうと思う気持ちもあった。どうしてそうじゃないと思えるのかは、分からないけれど……。
ブルースのガイド本を読むと、昔のブルースマンは、音楽だけで食べていけなかったから、小作人だったり、洗濯職人だったり、港湾の荷運び人足だったり、音楽とは別の仕事を本職にしながら、合い間に酒場やパーティーなどで演奏をしていていたらしい。
僕はプロの演奏家になりたいけど、もしブルースを専門に演奏するミュージシャンになるなら、やっぱり同じように、別の仕事をしながら、演奏活動を行わなければならないんだろう。ジャズなら、全国にジャズバーがあるし、大都市にはジャズがメインの大きなクラブもあるから、もう少し仕事が多そうだけど……、でも、日本の本格的なブルースの演奏家は、いったいどこに行けば観ることができるんだろう。
お父さんに聞くと、インターネットで調べてくれて、なんとぼくの住む三鷹から電車で通える立川に、ブルースの演奏家も出演するライブバーがあることが分かった。
平日は不定期、土曜と日曜は毎週生演奏が聴けるということだったので、ぼくらは早速週末にその店に出かけることにしてみた。
店の名前はトランプといって、立川駅から歩いて十分くらいの、大きな通りに面した、レンガ造りと木造を合わせた昔の西洋風の建物だった。
夕食時という事もあって、店内はお客さんがけっこう入っていて、壁際のソファ席と、八つほどあるテーブル席では、若い人からお年寄りまで、いろんな世代の人がにぎやかに食事をとりながらおしゃべりをしていた。テーブル席の奥の一段高くなった広い舞台には、椅子やマイクスタンドやドラムスやアンプが整然と並べてあった。
ぼくらが入り口近くの席に着いて、ドリンクが運ばれて来てから間もなく、拍手が起こって、舞台の裏から初老の演奏家が登場してきて、軽く客席に手を振ってから舞台の椅子に座った。
その日の出演者は、運よく弾き語りのブルースマンで、高谷公吉さんという人だった。お父さんによると、お父さんが子供の頃に活躍していた、日本のブルース界の先駆け的な人なのだそうだ。
ごま塩の無精ひげを生やし、やせて頼りなげな物腰ではあったけれど、大きな目に迫力を感じる人だった。
高谷さんは、ケースから使いこまれたアコースティックギターを取り出して、チューニングを済ませると、軽いあいさつをしてから、少し呼吸をおいて演奏を始めた。
一聴して、ミシシッピ・ジョン・ハートの奏法の、完全な模倣だと分かったけれど、見事なスリー・フィンガー奏法だった。
お客さんたちは、高谷さんの技術の高さに満足しているようだったし、高谷さんの歌声や歌詞のほのぼのした味わいを、心から楽しんでいるようすだった。
高谷さんは、一貫してスリー・フィンガー奏法の曲ばかり演奏した。それも、ジョン・ハートと同じスタイルだ。
曲間に、若いころの思い出話などを交えながら、十曲ほど演奏して、ショーが終わると、高谷さんは拍手を受けながら舞台を下り、そのままバーカウンターに行って、お酒を飲み始めた。
ぼくはお父さんに連れられて、高谷さんのところに行き、挨拶をして、ぼくがプロのギタリストで、ブルースが好きで練習していることを話した。
「小学六年生?すごいね。」
高谷さんは、とても穏やかな人で、ぼくが普段演奏している曲や、どんなブルースを聴いているのかを、興味深そうに聞いてくれた。
そして、「何か弾いてみてよ。」と言って、自分のギターケースを開けようとした。ぼくはあわてて、「ブルースはまだ練習中なので、下手なんです。」と言った。すると、高谷さんはカウンターの向こうにいるワイシャツを腕まくりした恰幅のいい人に、「ハヤちゃん、エレキ出してきてよ。セッションしようよ。」と言った。そのハヤちゃんと呼ばれたマスターらしき人は、「今日はセッションの日じゃないよ。お客さんもフォークソングを聴きに来てるんだし。」と、いかにも、ぼくみたいな子供を舞台に上げるのは気が進まない、というようすだった。
「じゃあ、今度のセッションの日に、また来なよ。おれも来るからさ。ね、一緒に演奏しようよ。」
高谷さんはそう言って、ぼくがうなずくのを待っていた。ぼくは、ハヤさんの顔色をうかがいながら、「よかったら、はい、お願いします。」と、しどろもどろに答えた。
指定されたセッションの日の水曜日、お父さんは仕事の都合でいっしょに行けなくなったので、ぼくは夕方の六時に、ギターケースを背負って、一人で立川のトランプに行った。
土曜日に来た時とは、テーブルの配置が変わっていて、奥のステージの周辺が、広めに空間を取ってあった。
お客さんは、先日より少なかったけど、それでも結構にぎやかだった。ほとんどの人が、常連客という感じで、お互いに顔見知りのようだった。
ニルバーナのトレーナーを着た女の人がエレキベースをいじっていたので、「こんばんは。ギターで参加する蒼井です。よろしくお願いします。」と挨拶したら、「まじ?何年生?」と聞いて来たので、「六年生です。」と答えたら、「まじやべえ。」と言ったので、お客さんがどっと笑った。
でも、お客さんの一人が、「その子、動画サイトで見たことあるよ。名前忘れたけど、プロのギタリストなんだよな。」と言ったので、お客さんはいっせいに、おおーと言った。ぼくはなんだか、プロだと名乗るのが恥ずかしく思えたので、軽く頭を下げて、機材のセッティングをし始めた。ギターケースからギブソンSGを取り出すと、お客さんはまたおおーっと声をそろえて驚いた。プラグインしてチューニングしているとき、カウンターの方からマスターのハヤさんが歩いてきて、「こんばんは。」と言ったので、ぼくはどぎまぎしながら、「こんばんは。」とだけ答えた。どうもこの人は苦手だ。ハヤさんはお客さんに「高谷さんがまだ来てないけどはじめるよ。」と言ってドラムスの椅子に座った。どうやらセッションの日はハヤさんがドラムスを叩くのが決まりらしい。
「高やんは遅刻魔やもんなぁ。」と誰かが言ったので、お客さんはまたどっと笑った。
「ぼく、何が弾きたいの?」
ハヤさんが聞いて来たけど、ぼくは自分を『ぼく』と呼ばれて、少し腹が立ったから、「クリームのクロスロードで。」と、答えて、お客さんのオーという声をかき消すように、大音量の急速調でリフを弾き始めた。
それから二十分くらい、即興のジャムを延々と続けたけれど、ハヤさんはぼくとベースの女の人の演奏について来るのがやっとという様子だったから、途中から少しテンポを落として演奏してあげることにした。
コードを叩きつけるように何度も繰り返し刻んで曲が締めくくられると、お客さんは大喜びで歓声を上げたり手を叩いたり指笛を吹いたり大騒ぎだった。
ハヤさんは、
「いや、すごいわ、この子。」
と言って、汗だくの顔をタオルで拭くと、「マサシ代わって。」と言ってドラムスの席をお客さんの中の若い男の人に譲った。
その時、ぼくはカウンター席の隅に、高谷さんが座っている事に気が付いた。彼がグラスをかかげてぼくに挨拶したので、ぼくも軽く会釈で返した。
その後、一時間くらい、飛び入りの参加者が入れ替わりながら、洋楽ロックの有名曲を次々に演奏したけれど、高谷さんは結局、どの曲の演奏にも参加することはなかった。
セッションが終わって、ぼくがお客さんに混じって帰り支度をしていると、高谷さんがぼくを呼んだので、ぼくは少し得意な気持ちで彼のとなりに座った。
高谷さんは、かなり酔っているようで、どんよりした血走った目で僕を見つめると、しゃがれた声で、
「ごめんな。昔は、ブルースロックも弾いてた時期があるから、できると思ったんだけど。」と言った。
ぼくは、
「いえ、高谷さんがロックを弾いてるのって、想像できなかったから……。」と答えた。
そして、「ぼくの演奏、どうでしたか?」と聞いてみた。
「鳥夫は、自分の演奏を上手いと思うかい?」
高谷さんが、逆に質問してきたので、ぼくは、
「上手いと思うけど、ミスると、ああ駄目だな、と思う。」
と正直に答えた。
「おれは、自分の演奏を下手だと思うよ。でも、自分の駄目なところが分かるから、逆に言うと、これから上手くなれる可能性はあると思ってる。」
高谷さんはそう言って、
「鳥夫は、小学生にしては上手い。でも、自分の演奏に酔っている所がある。」
とつづけた。
ぼくは、さっきみんなから子ども扱いされたときと違って、欠点を指摘されても全然いやな気持ちがしなかった。むしろ、その先が聞きたかったので、素直にうなずいて黙っていた。
「自分の演奏の悪いところが分からないと、それ以上上手くはなれないよ。」
高谷さんは、グラスを傾けたり、指先でなでたりする自分の手元を見つめていた。
ぼくは思い切って、
「ぼくにブルースの弾き方を教えて下さい。」
と頼んでみた。
高谷さんは、「いいよ。」と言って、片づけをしている給仕のお兄さんに、紙とペンを出してもらって、立川の住所と電話番号を書いて、ぼくに渡すと、「いない時も多いけど、会いたいときは連絡して。」と言った。
ぼくは、自分の人生にとって、すごく大きな道が開けたような気がして、お酒に酔ったような良い気持ちで家に帰った。
その週の土曜日が、学校も仕事も休みだったので、ぼくはさっそく、木曜日の夜に高谷さんに電話をしてみた。すると、高谷さんの奥さんが電話口に出て、「今出かけているから、後でかけ直させるね。」と言ってくれた。だけど、次の日の夜になっても、高谷さんから電話がなかったので、心配になって電話をかけてみたら、高谷さんが出て、「ごめん、忘れてた。じゃあ明日、待ってるよ。」と軽く約束してくれたので、ぼくは拍子抜けして、お願いします、とだけ言って電話を切った。だけど、何時に行くかを伝えていなかったので、再度かけ直したら、「君もおっちょこちょいだね。」と高谷さんに笑われてしまった。
翌日、ぼくは約束した正午よりもずいぶん早く、待ち合わせをした立川駅に到着した。でも、バス停のベンチで待っていたけど、正午になっても、一時になっても、二時になっても、高谷さんが現れないので、ケータイで高谷さんに電話してみたら、高谷さんが出て、「ごめん、寝てた。すぐ行くから。」と言ったので、ぼくはあきれながら、それからさらに一時間待っていた。
高谷さんはギターケースを荷台にくくりつけた自転車をこいでやって来て、「奥さんが出かけてて、起こしてもらえなかった。」と言った。
そして、家で弾くと近所迷惑になるから、河原に行って弾こうと言って、駅から三十分くらい歩いた多摩川の土手にぼくを連れて行った。
「駅の近くに昭和記念公園があるけど、あそこは許可なしで楽器を持ち込んでいいか分からないから。」と言いながら、高谷さんは土手の石段に座って、ケースからギターを取り出すと、さっそく軽やかな指さばきでブルースを爪弾き始めた。
驚いたことに、高谷さんは、スリー・フィンガー奏法だけではなくて、ピックを使った単音弾きのソロ奏法も、ボトルネック奏法(ガラスの筒を弦に当てて滑らせながら弾く奏法)も弾けて、しかもものすごく上手だった。
ぼくは、細かな表情付けの方法を、自分のギターで見よう見まねでやってみながら、「どうして、舞台ではスリー・フィンガー奏法しかやらないんですか?」と聞いてみた。
高谷さんは、「それが一番得意だからだよ。他の奏法は、お客からお金を取って聴かせられるほどのものじゃない。」と教えてくれた。
ぼくは、いつも温厚な高谷さんの、自分の音楽に対する厳しさを知って、ぼくが自分の音楽に対してどれだけ甘かったかを思い知らされた気がした。
三時間くらい弾き続けて、気が付くと、あたりはすっかり真っ暗になっていた。
まだ全然弾き足りなかったけど、その日は駅まで送ってもらって、「また来いよ。」と言われて家に帰った。

つづく

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小説 ブルース少年 (1)天才少年、ブルースに出あう|Kobitoのお絵描きブログ