絵にしろ、童話にしろ、夢のあるものを描くには、失ってはいけないものがあります。
それは、「子供心に対する慈(いつく)しみ」です。
どんなに上手に描けた作品でも、この心の部分が欠けていると、子どもに良質な夢を与えることはできないと思います。
では、「良質な夢」とは、具体的にどんなものでしょう。
それは、人間性を豊かにする、他者に対する思いやりの心を育む、真実を見抜く目を培(つちか)う、など、面白さや表面上の美しさを越えたところで、子どもの成長をうながすような、内面性を持った作品のことです。
ここで、注意しなければいけないのは、私の言う内面性を持った作品とは、教育やしつけを目的とした作品のことではない、という事です。
人間には、生まれながらに備わった、良心というものがあるので、ことさらに教育を意識して描かなくとも、作品そのものに良心の滋養になるものが含まれていれば、それを子どもたちは感じ取って、きちんと吸収してくれるものです。
だから、描き手はむしろ、教育的であることよりも、作品をいかに心の滋養に富んだものにするかに、心を尽くすべきだと思います。
エンターテイメントを追求したり、教育的な内容になるように気を配ったりするのも、作品を形にするひとつの方法ではありますが、子どもが心の豊かさや多面的な物の見方を獲得するには、より感覚的で内面的な作品が必要になってくると思いますし、今のような刹那的で即物的な時代には、子どもにより深みのある作品と接する機会を与える事が、成熟した人間性の育成という点で、以前にもまして重要になって来ているとも感じます。


img2-235.jpg
【ナマズを釣るトム・ソーヤ―とハックルベリー・フィン】


拍手ボタン
私はこれまでに、童話や小説の短編や長編を、かなりの数、書いてきましたが、未公開の作品で、完成に至らなかったけれど、お気に入りの作品、というのもあります。
それは、『コブリの音楽隊』というタイトルで、三人の小人が、都で開かれるお祭りに参加するために、楽器を持って故郷のコブリ村からはるばる旅をする、というお話です。


img2-164.jpg

イメージ画はこんな感じで、それぞれの名前、「ゴボー」「メルン」「スカー」は、野菜のゴボウ、メロン、スイカをもじったものです。
ゴボーは笛、メルンはギター、スカーは太鼓を、それぞれ携えています。

十年くらい前に、不思議の国のアリスのような、風刺の効いたコメディとして書きはじめて、おおよその部分は完成したんですが、エンディングの展開で満足できるものが書けずに、四苦八苦した挙句、あきらめて制作を放棄してしまいました。

このお気に入りのキャラクターを、公開できる物語にしてあげられなかったことが、今でも心残りになっています。
そこで、今回は皆さんに、姿だけでも見てもらう事にしました。
いかにも、面白い物語が、展開できそうな顔ぶれでしょう?


(なお、今まで、このブログで公開するイラストは、画像処理ソフトで原画に近くなるように色味を調整していたんですが、たまたま他のパソコンで私のブログを見る機会があり、自宅のパソコンで見た色味とはまるでちがう、鮮やかすぎる色彩になっている事に気が付いたので、今後は色味を調整せずに、スキャンしたままのイラストを公開することにしました。)

拍手ボタン
 物語は、いったいどこから生まれるのでしょう。
知識でしょうか、体験でしょうか、それとも、DNAに刻まれた、太古の昔からの記憶でしょうか。
音楽で言えば、モーツァルトは、尽きることなくあふれ出る自分の楽想を、「神が与えたもの」と、書き残しています。
私は、無神論者なので、創造の源泉を神に求めることには賛同できませんが、人が、過去に作られたものの単なる組み合わせではなく、全く新しいものを創造できる、という点は、とても不思議だな、と思います。

そもそも、宇宙というものは、一番初めは無の状態で、そこからビッグ・バンという大爆発が起こって、時間や空間や物質が生まれてきたのではないか、と思うんですが、無から有を生み出すというこの現象が、本当に過去に発生していたのだとしたら、私たち人間の創作物の中に、完全な無からの創造が含まれていたとしても、決しておかしくはないのです。

と、いう事で、下の絵は、新作童話を書くための発想の手助けにしようと思って描いた絵です。
どんな物語が生まれて来るでしょうね。
そして、その物語や、このアルマジロさんやはりねずみくんは、いったいどこから生まれてきたのでしょうね。

img960cs-.jpg




拍手ボタン
 八木重吉(やぎ・じゅうきち)という名前を、聞いたことがありますか?

私が尊敬する、三人の詩人の中の一人です。

重吉は、昭和2年(1927年)に30歳の若さで、肺結核により亡くなったので、彼が残した詩は、今からおよそ90年以上も昔に書かれたものということになります。

彼が得意としたのは、2~6行くらいの、ごく短い詩です。

私が好きな、彼の詩を、一つ紹介します。
とは言っても、この詩は、重吉が考えたものではありません。重吉の娘の桃子が、自分で作って歌った歌の文句です。
重吉自身が、詩の題名の横に、ちゃんと本当の作者の名前を書き添えてあります。





栗 (桃子のうたえることば)
                 桃子満二歳余




くり

くり

くり 採って

くり たべたい











重吉は、桃子の事を大変に可愛がっていたので、彼の詩の中にも、桃子が登場する機会は多いです。
この、桃子が思い付きで歌ったであろう歌の文句の、簡単さ、みずみずしさ、面白さは、重吉が目指していた「分かりやすく胸に響く詩」と相通じるものがありますし、重吉の代表的な詩と比較しても、決して引けを取らない、素晴らしい出来栄えの詩になっている、と私は思います。

実は、これはなにも、詩人の娘である桃子ならではの特技、というわけではありません。
朝日新聞に、子供の何気ない一言を読者が投稿する「あのね」という欄があって、本にまとめられて出版もされているんですが、それを読むと、子供の言葉や物の見方が、大人に比べて知識の裏付けが十分でない分、とても新鮮な響きと視点を持っている事が分かります。

「詩心」というのは、技巧や感性など、様々な要素を含んでいるとは思いますが、こういう優れた響きを持つ子供の言葉に接すると、「子供心」が、その一つの源泉であることは間違いないように思います。



img931cs-.jpg




拍手ボタン
 評論家以外の人が、創作物の評論をすると、「そんなことするべきじゃない」と言う人がいますが、どうして、評論自体を、悪いことのように思うのでしょう。

確かに、肯定的でない意見は、反発を感じることもありますが、意見の内容が的を得たものであれば、それは創作者にとっても、鑑賞者にとっても、有意義なものだと私は思うんです。

講評と悪口は違います。講評というのは、作品に接して、思ったこと、感じたことを、筋道立てて説明することです。

もちろん、講評の内容が批判ばかりでは、角が立ちますから、良い点を認めつつ、改善できそうな点を指摘する、という配慮も必要です。そして、その批評に対する反論も、それが妥当なものであれば、批評した側は真摯に受け止めなければなりません。
「評論すること自体に対する批判」を目にする度に、私は、「そういう講評のやりとりがあることは、むしろ歓迎すべきことなのに」と、残念に思います。

img928cs-.jpg











拍手ボタン
 童話や小説を書く事を趣味にしたいと思っている人が、「書き方が分からない」と、途方に暮れているのを、時々見かけますが、文章の技術的問題や、筋書きが思い浮かばない、という発想力の問題のいずれにも共通する、良い解決方法が一つだけあります。
それは、他の人が作った良質な作品を、たくさん見たり読んだりすることです。
アイデアというのは、完全な無からでも生み出せる、と、私は信じていますが、アイデアの元となる知識が多ければ多いほど、幅広いアイデアが容易に生み出せるようになる事も事実です。

また、良質な作品の判断基準としては、「ここ十年ほどの間の流行り物でなく、すでに高い評価が定まっている昔の作品」から選ぶ、というのが良いと思います。

なぜなら、新しい作品は、いずれも過去の作品から影響を受けて製作されているので、過去の作品から直接学んだ方が、アイデアの意図や美点をより純粋な形で感じ取ることができ、自分の作品に活かすことができるからです。

img873cs-.jpg

(この絵は、ぼんやりと浮かんだイメージに基づいて描き上げました。二人の女の子が、道端の石に座って、馬車の到着を待っている、といった光景です。この一枚の絵からでも、書き手によって、十人十色のさまざまなストーリーが生み出せると思いませんか?)





拍手ボタン
 きょうは、詩のような、童話のような(詩童話と呼ぶべきか)、短いお話が書けたので、挿絵を添えて、紹介します。

一般的に、詩の書き方と、童話の書き方には、明確な違いがありますが、まれに、詩の書法を用いて童話を書く作家がいます。
例えば、私が最も尊敬する童話作家の宮沢賢治の作品は、すべて詩と呼んで差支えのないリズムと言葉の響きの豊かさを持っています。
あれだけ長い文章を、詩的な美しさを保ちながら完成させることができるというのは、本当にたぐいまれな才能だと思います。
ですから、私も未熟ではありますが、賢治に倣(なら)って、物語を書くときは、文章に詩心を込めたいと思いながら書くようにしています。
具体的に、詩心とは何かと考えてみると、それは先ほど言った、「リズムと言葉の響きから来る感動」、それから、「言葉の意味そのものから来る感動」、この二つに大別されると思います。
私がより重視しているのは、前者の、リズムと響きから来る感動です。これは、言葉の意味がどうであれ、リズムと響きが優れていれば、読み手を感動させることができる、という、ある種魔術的な技巧です。ただし、この感動を読み手が味わうには、その人自身にも言葉に備わったリズムと響き(さらにはイントネーションのメロディ)を感じ取る、音楽的な鋭い感性が必要になります。
一方で、言葉の意味そのものが持つ感動が主な鑑賞ポイントの詩は、詩以外の文章と同じように、書き手が手持ちの語彙(ごい)を活かすだけで書くことができる、比較的簡単な詩であると言えます。

音楽的な技巧と、意味で楽しむ技巧を分けて論じましたが、これは完全に分離できるものではなく、どんな文章にも、両方の要素が含まれていて、含まれる比率が違うだけです。
普通の文章を詩にする場合、言葉を純化して行くわけですが、「音楽的な感動」と「意味による感動」、どちらの効果を重視して行くかは、書き手の好みによります。

私の認識では、

普通の文章→意味で楽しむ技巧の詩→音楽的な技巧の詩

という順に、言葉の味わい深さが増していくと同時に、製作する難易度も上がって行くと思っています。

私が冒頭で述べた、「詩の書法を使って童話を書く」というのは、音楽的な技巧を使って書く、という事ですから、童話自体が詩としての感動も備えていることになるわけです。

さて、それでは、話を戻して(こんなに一生懸命な前振りの後で恐縮ですが)、私の童話を読んで下さい。


挿絵については、お話の内容に沿うような、雰囲気を持たせることができたように思います。


『すずめがけんかした』

駅のホームで、
すずめのけんかがはじまりました。
取っくみあって、転げまわって、
しまいに、一羽がぱっと飛び立って、
ちょっとはなれた、仲間のところに行きました。
のこされたすずめには、やさしいすずめが
ちょんちょんとはね寄って、
いたわるように、みつめていました。
だけど やられたすずめは、プイとどこかに
飛んで行って、いたわったすずめも、
間もなく仲間のところにとんで帰りました。
そんなこんなも、私の勝手な空想だったのでしょうか。



img862cs-.jpg




拍手ボタン
詩・童話・小説の書き方|Kobitoのお絵描きブログ 44.994.940.752.734.733.698.689